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第二十三話

last update Last Updated: 2025-03-31 15:50:53

それからも、日葵の気持ちなどお構いなしに仕事は降りかかる。あの謝罪の意味すらわからないまま、時だけは過ぎていった。時間を見ればもう15時を回っていて、日葵は昼食をとっていないことを思い出して、小さく息をつくと席を立った。

「長谷川さん」

そんな時、日葵のデスクにやってきた柚希に笑顔を向けた。

「どうかした?」

「少し教えていただきたいんですけど、今いいですか?」

柚希は自分のノートPCを日葵のデスクに置くと、画面を見つめる。

「もちろんよ。どれ?」

「この出張のホテル申請なんですけど……」

その言葉に日葵も驚いてその画面を見た。

「出張?いつ?」

「それが、チーフの急な指示で明日名古屋なんです」

少し不安げな柚希の言葉に、日葵は内容を確認する。

「え?あの名古屋であるゲームフェスティバルよね?」

「はい」

明日、明後日と大きなゲームのイベントが名古屋であり、それの視察と、挨拶周りのための出張だ。

役員一人と、チーフの壮一、営業部で大手メーカーとも付き合いが長い、課長である澤部、そしてアシスタントで澤部と同じ部署の女性社員――のはずだ。どうして柚希?という疑問が日葵の中に沸き上がる。

「確か、営業部の人が行くはずじゃなかった?」

今の現状から、壮一は責任者として行かなければいけなかったが、この部署からは壮一以外行かない予定になっていた。

「はい、急に専務がその女性社員では、もしも詳しい話を振られたときにチーフだけでは大変だろうということになったみたいです」

「そう……」

「他の皆さんは忙しいですし、私なんですかね?」

その言葉に日葵はハッとして笑顔を向ける。壮一と柚希が泊まりで出張に行くことが、どうしてこんなに気になるのか……。このあいだ、頼りにしてると言ったにもかかわらず、この重要な仕事を柚希に頼んだことがショックなのだろうか?自問自答しても答えは出ず、日葵は柚希に申請方法を説明した。

「柚希ちゃん、がんばってね」

笑顔で言ったつもりだったが、自分がどういう顔をしているかわからなかった。しかし、そんな日葵の思いなど、まったく気づいていないようで、柚希は少しだけ言葉を選ぶような表情をした。

「仕事なので、こんなことを言ってはいけないと思うんですけど……」

少し話すのを躊躇した柚希に、日葵は首を傾げた。

「ここのところ、チーフすごく疲れてますよね。そばでお世話できてう
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    「長谷川さんすごいな。何か国語話せるの?」 営業部の課長の澤部が驚いたように声を掛けた。「ああ、日常会話程度です」「さすがだね、長谷川さん」 今回同行している、日葵の父の代から会社を支えてきた専務・近藤が、にこやかに現れた。日葵の素性も、もちろん知っている。「清水君もご苦労様。急なことだったが、前宣伝としては上々かな?」 その言葉に、壮一も力強く頷いた。 「手ごたえは十分だと思います」「そうか、あとはもう仕上げるだけだな。社長にもそう伝えるよ」そして、日葵と壮一の横を通り過ぎるとき、近藤は小声で言った。 「二人とも、頑張っていたって伝えておく」 そう言い残してその場を後にした。一日目がバタバタと過ぎ、後片付けも何とか終わり、日葵はホテル近くの居酒屋で名古屋のスタッフや澤部たちと食事をしていた。「あそこの会社の……」 イベントの話題で盛り上がる中、日葵は座敷の隅で笑顔を浮かべながら耳を傾けていた。 そんなとき、上座にいた壮一が席を立つのが目に入った。「チーフ、お手洗いですか?」 酒が入っているせいか、スタッフの声が少し大きめに響いた。 「ああ」 柔らかな笑みを浮かべて席を外す壮一に、日葵は違和感を覚え、そっと席を立った。(やっぱり……)案の定、壮一はレジで会計をしていた。「チーフ」 その声に振り向いた壮一は、日葵にだけわかるように、少し表情を歪めた。「仕事するつもりですよね?」 じっと視線を向けると、壮一は諦めたように息を吐いた。「どうしてバレるんだよ」 呟くように言ったあと、今度は壮一が日葵を見た。「長谷川はもう少し楽しんでいけ。明日もあるから、あまり遅くなるなよ」 それだけ言うと、踵を返して店を出ていった。 日葵は無言でその背中を追いかける。「ついてこなくていい」 冷たく突き放すような言葉にも、日葵は答えなかった。「どこまでついてくるつもりだ?」 ホテルの部屋の前で、さすがに日葵も足を止めた。「仕事するんですよね?」 「お前、俺の部屋に入るのか?」ドアノブに手をかけたまま静かに問いかけられ、日葵は唇を強く噛んだ。「だって、仕事でしょ? 昨日も寝てないだろうし、顔色だって……」 そこまで言って、日葵は自分の言葉に気づいて止まった。(私、なに言ってるんだろう……)廊下を行き交う人々が、チラチラと視線を向けてくる。 こんなホテ

  • I Still Love You ーまだ愛してるー   第二十六話

    「どうしてだろうな。日葵の期待を裏切りたくなかったのかもな」「期待?」日葵は自分でその言葉を発してみて、昔の壮一は日葵にとってヒーローだったことを思い出した。いつもなんでも完璧で、余裕があって。その陰に努力や苦労があったことなど想像もしていなかった。いつも後ろをくっついて、「すごいすごい」と頼りっぱなしだった。「ごめんなさい」そんな自分に、日葵は言葉が零れ落ちた。「どうして日葵が謝るんだよ」壮一があまりにも穏やかに言葉を発したことで、日葵もホッとして言葉を続けた。「だって、昔の私って迷惑かけてばっかりだったでしょ。なんでも頼ってばかりで。それが無理をさせてた……」壮一の思っていることなど一ミリも考えることなく、自分の気持ちを押し付けてばかりだったように思った。「それは違う」壮一は少し考えるような表情を見せ、日葵は言葉の続きを待った。「日葵の前では、完璧でありたかったから。だから――言い訳にもならないけど、あの時、何も言わずにアメリカへ行ったのかもしれない。すまなかった」日葵は何をどう答えて、どう反応すればいいのかわからなかった。(このあいだはどうして謝ったのかあれほど気になっていたのに……)聞いてしまったことを、なぜか後悔する自分を感じた。今までの苛立ちも、苦しみも、恨み言も、言葉にすることが出来なかった。完璧でいるために私から離れた?その意味を日葵は考えていた。しばらく無言の時間が過ぎたが、すぐに仕事の話になり、気づけば会場へと着いていた。「すぐに合流して準備をしよう」壮一の言葉に、日葵もトランクから荷物を抱えると会場へと入った。最大級のイベントはもう始まっており、会場はすごい熱気にあふれていた。プレスリリースまではまだ日があるが、今回いろいろなところからの問い合わせもあり、急遽ブースを出すことになったらしい。「清水チーフ!」名古屋支社からもたくさんのスタッフが慌ただしく対応しており、壮一を見てそのスタッフたちがホッとしたのが日葵にも分かった。「お疲れ様」壮一はいつもの余裕の笑みを浮かべ、スタッフに指示を出している。そんな様子を少しの間足を止めて見ていた日葵は、「長谷川!」その声で我に返ると、持ってきたグッズの見本やノベルティの搬入を始めた。「うわ、それかわいい」すでにブースにいたカップルが日葵の手元

  • I Still Love You ーまだ愛してるー   第二十五話

    昨夜の崎本のことも、今日からの壮一との出張も、すべてが気が重く日葵は足取り重く駅へと向かっていた。ぼんやりと歩いていると、車のクラクションが後ろから聞こえた。その音に振り向くと、横に静かに壮一の車が止まる。「長谷川」ハンドルに片手を掛け、窓から呼ぶ壮一に日葵は何とも言えず複雑な心境が覆う。「おはようございます。チーフ」なんとか仕事用の笑顔を張り付けると、壮一の顔をみることなく頭を下げた。そんな日葵の様子に、小さく壮一が息を吐いたことなど日葵は知らない。「おはよう。今日は悪いな。乗ってくれ」「大丈夫です」無意識に零れ落ちた自分の冷たく低い言葉に、日葵は後悔しても遅い。チラリと壮一を伺えば、表情を変えることなく日葵をみていた。「そんな訳にいかないだろ? 急に柚希の代わりに無理を言って行ってもらうんだから」その言葉に日葵の心の中はザワザワと音を立てる。本当は柚希と行きたかったのではないか? 自分とは行きたくないのではないか。そんな子供のようなことを思ってしまった自分が情けなくなる。グッと唇を噛んだ日葵に、壮一は静かに声を発した。「じゃあ乗ってくれ。頼む」私情を入れているのは自分だとは日葵もわかっていた。でも駅までなら電車でも変わらない。その気持ちも譲れなかった。このざわつく気持ちで壮一と同じ空間にいたくなかった。「でも、電車でもさほど変わりませんし」その言葉に、壮一は視線を外すと大きなため息を吐いて呟いた。「やっぱりな……」その言葉に、日葵は運転席の壮一を見た。「急遽、簡易的だがブースを出すことになって、昨日も遅くまでノベルティとかの確認があって、俺と柚希は車で行く予定だったんだよ」その言葉に日葵は啞然とした。「そうだったんですか……申し訳ありません。お手伝いもせず帰って」崎本と食事をしていたころ、柚希はずっと仕事をしていた。そして体調を崩したと知り、日葵は罪悪感が広がった。そんな思いで俯いた日葵に、壮一が運転席から降りるのがわかった。「お前の仕事じゃないだろ。気にするな」そう言いながら、壮一は日葵のもとへと来ると、日葵から荷物を取り上げ、さっと後部座席に乗せた。そこまでされてはもう何も言うことなどできなかった。日葵は諦めたように、壮一の車に乗り込んだ。しばらく無言の車内に、最近聞きなれた音楽が響く。

  • I Still Love You ーまだ愛してるー   第二十四話

    なんとなく落ち着かない気持ちで食事を終え、送るといってくれた崎本の車の中。信号が黄色に変わり、ゆっくりと停車すると静かな車内で崎本の声が響いた。「また今度……」しかし崎本の言葉は、日葵のカバンの中から鳴った着信音に遮られた。ディスプレイの表示は〝清水チーフ"。そっと崎本を見ると、小さく息を吐いて「出て」と言葉を発した。仕事以外の要件で電話があるはずがないと、日葵はゆっくりと通話ボタンを押す。『お疲れ様。遅い時間に悪い』少し疲れた壮一の言葉に、日葵も「お疲れ様です」と返した。『今いい?』いいかと聞かれれば、かなり微妙な空間だったが、そんなことも言えず日葵は「はい」と返事をした。『明日からの名古屋なんだが』「はい、柚希ちゃんが行く予定の?」冷静に言葉を発することが出来ただろうか?そんなことを思いながら日葵は壮一の言葉の続きを待った。『行ってくれないか?』「え?私が名古屋の出張に泊りで?」その言葉に「え?」と崎本が言葉を発して、日葵はチラリと崎本を見た。『……誰かと一緒?』静かに響いた壮一の声に、日葵は答えることが出来ず、話を逸らした。「柚希ちゃんはどうしたんですか?」『ああ、さっき熱を出したと連絡があった。柚希の代わりになるのは……申し訳ないが長谷川しか無理だから』その言葉に日葵はギュッと唇をかみしめた。仕事なのはもちろんわかる。断る権利も、権限ももちろんない。体調を崩したのは柚希で、残念な思いをしているのも柚希だ。「わかりました」静かに答えると、「じゃあ詳細はメールする」それだけをいうと少しの無言のあと、無機質なトーン音が聞こえた。日葵はその場に崎本がいることも忘れ、憂鬱な気持ちでスマホを見つめていた。いつのまにか、いつも送ってもらう場所へと車は停車していた。「すみません」かなり自分の世界に入り込んでいた日葵は、ハッとして崎本を見た。ハンドルをギュッと握りしめて、俯いていて崎本の表情は解り知れない。「ありがとうございました」なぜか重たい空気に、日葵は慌ててシートベルトを外すとドアノブに手をかける。それと同時に後ろから腕を引き寄せられた。ハッとして振り返ると、日葵は崎本の腕の中だった。「え? 部長?」その状況が理解できず日葵は戸惑いの声を上げた。「行くな……って付き合ってても言えないけど、行って

  • I Still Love You ーまだ愛してるー   第二十三話

    それからも、日葵の気持ちなどお構いなしに仕事は降りかかる。あの謝罪の意味すらわからないまま、時だけは過ぎていった。時間を見ればもう15時を回っていて、日葵は昼食をとっていないことを思い出して、小さく息をつくと席を立った。「長谷川さん」そんな時、日葵のデスクにやってきた柚希に笑顔を向けた。「どうかした?」「少し教えていただきたいんですけど、今いいですか?」柚希は自分のノートPCを日葵のデスクに置くと、画面を見つめる。「もちろんよ。どれ?」「この出張のホテル申請なんですけど……」その言葉に日葵も驚いてその画面を見た。「出張?いつ?」「それが、チーフの急な指示で明日名古屋なんです」少し不安げな柚希の言葉に、日葵は内容を確認する。「え?あの名古屋であるゲームフェスティバルよね?」「はい」明日、明後日と大きなゲームのイベントが名古屋であり、それの視察と、挨拶周りのための出張だ。役員一人と、チーフの壮一、営業部で大手メーカーとも付き合いが長い、課長である澤部、そしてアシスタントで澤部と同じ部署の女性社員――のはずだ。どうして柚希?という疑問が日葵の中に沸き上がる。「確か、営業部の人が行くはずじゃなかった?」今の現状から、壮一は責任者として行かなければいけなかったが、この部署からは壮一以外行かない予定になっていた。「はい、急に専務がその女性社員では、もしも詳しい話を振られたときにチーフだけでは大変だろうということになったみたいです」「そう……」「他の皆さんは忙しいですし、私なんですかね?」その言葉に日葵はハッとして笑顔を向ける。壮一と柚希が泊まりで出張に行くことが、どうしてこんなに気になるのか……。このあいだ、頼りにしてると言ったにもかかわらず、この重要な仕事を柚希に頼んだことがショックなのだろうか?自問自答しても答えは出ず、日葵は柚希に申請方法を説明した。「柚希ちゃん、がんばってね」笑顔で言ったつもりだったが、自分がどういう顔をしているかわからなかった。しかし、そんな日葵の思いなど、まったく気づいていないようで、柚希は少しだけ言葉を選ぶような表情をした。「仕事なので、こんなことを言ってはいけないと思うんですけど……」少し話すのを躊躇した柚希に、日葵は首を傾げた。「ここのところ、チーフすごく疲れてますよね。そばでお世話できてう

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